合理的だとか効率とか生産性という言葉がある。
そういう言葉が闊歩し始めたのは一体いつからなのだろうか。
こういった言葉を勉強に持ち込むのは違うんじゃないかと俺は思っている。
そういう視点でとらえたら、勉強そのものに疑問符が付く。
「勉強してなんになる」という言葉は、まさにそうである。
実は勉強というのはとんでもなく非効率的かつ不合理なものである。
「『解の公式』を知らなくても問題なく生きてこれた」と発言した人もおったくらいだ。
多分、その方は学業は優秀だったのだろうが、何というか「残念な」人だ。
確かに、知識として「解の公式」なんて使うのは高校生までだろう。
実生活では何の役にも立たない。役にたったらこっちが驚くわい!
でも、そんなことを言い出せば、前述の「勉強してなんになる」である。
小中高の勉強で得る知識なんて、忘れてしまっていいのである。
というか、はっきり言って死ぬまで役に立たん(笑)
でもね、勉強したことは役に立たないが、勉強を通して身につけたものは役に立つ。
役に立つというよりも為人を形成してしまうと言った方がいいかもしれん
だから、俺はいっつもうるさく言うのだ。
問題に対して、どう取り組んでいくのか。
その過程をうちの塾では学んでほしいと思っている。
仮に、それが一生役にたたない「解の公式」の問題であったとしてもだ。
そして、こういう視点を持つことができれば、もはや勉強は必要ではない。
材料は何だってよくなる。何であっても、そこから学べるようになる。
ただ、勉強がいちばん「簡単」だというだけ。
いずれにしても、俺は「勉強のできる子」ではなく
「勉強から何かを学べる子」を育てていきたい。
うむ、珍しくきれいにまとまった。
実はかなりの睡魔と戦っているのだ(笑)
でも、あと1枚プリントを作ってから寝よう。では、さらば!