たまには、普段の俺が考えていることでも書いてみよう。
音楽には「解釈」というものがある。
同じ楽曲であっても、指揮者によって全く異なる演奏になる。
それが「解釈」の違いである。
クラシックが好きな人は、同じ曲のCDやレコードを何枚も持っている人が多い。
そして、「聞き比べ」なんていう贅沢をしてしまう。
かくいう俺もそうだ。
音楽に興味のない人は、ただの「無駄遣い」と思うだろうけど(笑)
趣味で音楽をやっているので、演奏する機会や指揮をする機会が多い。
演奏をするには、もちろん楽譜が必要である。
面白いのは、譜面を前にしたときの奏者の態度である。
まず、適当に譜面に沿って練習する。
そのときに重要なのは記憶力だ。
まずは、音符のつながりを見て、そこに当てはまるパターンを考える。
クラシック音楽には、ある程度のセオリーというものがある。
とりあえずは、セオリーに沿って一通りやってみる。
ただし、セオリーだけではつまらないものになる。
そこで、もう一つの記憶を呼び出す。
それは、これまでに聞いてきたものであったり、自分の演奏だったりする。
その中から、似たようなフレーズを思い出し、それがどのような変化をつけたものかを考える。
そして、そのフレーズの前後や曲全体の位置づけから、最良と思われる表現を選択する。
ま、ごく簡単に書くと、こんなことを考えながら練習をするわけだ。
ところが、演奏が上手でない人たちに指導をすると、その部分がごっそり抜けている。
ただ、譜面にある音を羅列して漠然と演奏している。
四分音符や八分音符や休符が「ただ並んでいるもの」にしか見えていないということだ。
ある程度、演奏が上達した人はセオリーにこだわる。
もちろん、上手でない人たちよりはいい演奏だろう。
しかし、いまいち「流れ」が不自然であったりする。
次の段階の人は、セオリーを意識しつつ、全体の流れも考慮して細かく、あるいは大胆に変更を加える。
ま、ごく簡単に書くと、こんな段階がある。
そして、よく思うのは、これって数学の難しめの問題を解くときと似てるんだな。
譜面が数学の問題のようなものだ。
数学の問題が解けない人の大部分は、記憶のストックがない。
知識であったり、似たような問題をやったことがあるという記憶。
だから、手も動かないし、ぼんやり中空を眺めたり、問題文とにらめっこという状態になる。
こういう人は、ある程度、問題を「意識的に解く」練習が必要だ。
「意識的」っていうのがとっても大切なんだけどね。
ただ、問題集で問題を大量に解いてもダメなのだ。
そして、次の段階の人は、定石の解法通りにやろうとする。
問題を無理やり解法に当てはめようとしたりするのも、この段階である。
こういう人は、柔軟性というか、一つの方法がうまくいかなったときに、他のストックをひっぱり出してきて使えるかどうか試してみたりする経験が必要ということになる。
最終段階に突入すると、記憶というものがかなり立体的になる。
俺の頭の中のイメージを言葉にすると、箱がいくつも立方体のように重なっていて、縦に串刺しにしたり、横に串刺しにして、必要なものを取り出せるようなイメージ。
個別の記憶から、共通因子を取り出して、より抽象化したレベルで記憶を再構築する。
だから、記憶量としては、初歩段階より圧倒的に少なくなる。
うーん、よく分からん話になっとるな(笑)
ま、とにかく記憶というよりも、直観というものに近づいていく。
というようなことを、楽器の練習をしながらアレコレ考えている。
ただ、いくら考えても「指回し」は上手くならない。
こればかりは、修練あるのみだなぁ・・・。
あー、あとちょっとで演奏会。
あの曲、まだ完璧にできない・・・(笑)