「努力は必ず報われる」という言葉がある。
授業でも、たまに生徒に聞いてみることがある。
これについては、そうだそうだ!という人と、100%なんてない!という人に分かれる。
生徒を応援する立場としては「努力は必ず報われる」と思っているが、実は100%なんてないと思っている部分もある。正確には、努力は必ず報われるが、そうでない場合もある。というのが俺の考え方だ。
こう言うと、「ズルい」「詐欺師に向いてます」「あなた八方美人な性格ですね?」「あなたは現代に降り立った悪魔です!」などと言われてしまうかもしれない。しかし、俺はズルくも詐欺師でも八方美人でも、ましてや悪魔でも何でもないぞ。当たり前か。
これは、努力という言葉の捉え方や定義が人によって異なるというのが1つの原因だと思う。
個人的には、努力というのはベクトル量であって、大きさと方向を持つものだと思っている。ところが、中にはスカラー量であって大きさしかないという人もいる。
俺としては、「努力」はベクトルで、「頑張り」というのがスカラーだと思っている。まあ、こんなもの国語辞典には載っていないから、何が正解かは知らない。ただ、経験的に努力はベクトル量だと感じているだけ。
勉強を例にとってみると、数学を5000問やりました!というのが大きさである。これだけをもって努力と見なすかどうかということだ。確かに5000問なんて常人離れしているから、努力と言いたくなる。極端な例だけど、こういう風に勉強を捉えている人が多いと思う。
ところが、大抵の場合、そういう人に話を聞くと、5000問をやりきること自体が目的になっている。これでは、俺としては努力と言えない。頑張りましたねぇ・・・という状態である。
ただし、たまたま「5000問やるうちに苦手がつぶれていた」という状況が発生する。これを「報われる」と捉える(実際そういう人が多い)と、努力が報われない場合が生じる可能性が生じるのも分かるだろう。
さらに、こうした無方向性なやり方では、検証・反省・修正ということをやり難い。反省と言っても「足りなかった」程度で終わってしまう。次は100000000問やりますか?
反省点や修正点が明確になるということも「報われる」ことの1つとすれば、やはり、報われない可能性が出てくるのだ。
こうして努力は必ずしも報われない状況が発生する。
一方、努力をベクトル量で捉える場合、頑張りという絶対量に加えて、目的と手段による方向性を与える必要が出てくる。何のためにやるか、どのようにやるか、である。
例えば、「文章題が苦手」という現実があった場合、そこに対して、まずは「何を克服すべきか」という課題を把握する必要がある。方向性を正しく与えるには、現実的な自己分析が非常に重要となる。
「言葉を数式化できない」だとか「情報の整理ができない」とか、あるいは実際は「連立方程式の計算ができていない」かもしれない。まずはそのあたりの具体的なチェックが必要となる。そして、それに対して、何をやるかが必要となる。たいていの場合は問題集をやる前の段階に課題があると気づく。まずは、その部分を潰し(勉強では暗記が多い)、本当にできているかを問題をやって確認していく。5000問も必要ないのは分かるだろう。
このように、努力をベクトル量で考えた場合、課題を克服できたかどうかの検証・反省・修正が非常にやりやすいのだ。もちろん、一発で報われることはないにしても、修正すべきことが明確になれば、それだけでも報われたことになる。修正しながら続けていけば、目標とするところへたどり着くだろう。
というのが、俺の根底にある考え方。理屈っぽいな・・・。
もう飽きたし(笑)
ああ、やだやだ。真面目なこと書くと頭が痒くなっちゃう。
本当のところは・・・
こんな小難しいことは、いろんな経験を通して学んでいけばいい。
最初っから努力はベクトル量だ!なんていう人はいないだろうし。
俺だってそうだったからね。
たくさん失敗して、たくさん反省すればいい。
生徒には、失敗を次に生かせる人になってもらいたい。
でも、スカラーだろうとベクトルだろうと、努力をしなけば変わらない。
まずは、どうであれ一歩踏み出すこと。それが大事よ。
ということなんだな。