エラーを発見する

昨日は約3年ぶりくらいに特別講座「現代文」をやったので、5年ぐらい寿命が縮まった気がする(笑)

論理的に考えるという点では、数学も現代文もあまり差異はないと思っている。でも、実際にやってもらうと、生徒はとんでもない読み方をしているんだなあと思う。教科書とか参考書とかをちゃんと読めていない生徒もたくさんいるんだろうなあ。国語っていう教科の存在って一体なんなんだろうと感じざるを得ない。

こういうこと書いてると、無駄な怒りがこみ上げてきて血圧が上がるので、猫の動画を観て心を癒している。本題に入ろう。

 

数学に限らず、どんな勉強においてもそうなんだけど「間違える」という経験は貴重である。

「ミスしたらどうしよう」という強迫観念に囚われている人は思った以上に多い。これは教育の失敗である(笑)

間違う、ミスをするということを極度に嫌う人が一定数いて、そういう人は自分の中にあるエラーと向き合わない。「なんでこうなったの」と聞くと「調子が悪かった」なんていうトンチンカンな答えが返ってくることもある。

ある意味、勉強はミスしたところからスタートするわけだから、まずは積極的にミスを受け入れるという姿勢を忘れないようにしてほしい。

また、問題演習やテストをするのは自分で気づいていないエラーを発見するためにある。エラーが見つかれば、そこを徹底的に分析し、改善していけば良い。これ自体は非常にシンプルなことである。

ただし、エラーを発見するためには、ある程度整ったものが準備されていないとダメである。色々なものが不規則に混ざった状態からピンポイントで原因を特定するのはかなり難しいというのは誰にでも分かるはずだ。

それにも関わらず、勉強ではそうした「ごった煮」状態になっている人が多い。基礎を丁寧に積み上げるというのは、そうした細かなエラーを発見するために必要不可欠なのである。むやみやたらに問題に手を出したり、アレコレつまみ食いばかりを繰り返していても、エラーが訂正されるのは「運任せ」になってしまうのである。

それなのに、基礎もそこそこのうちからチャート式を○周とか傍用問題集を○周なんていう指導をする無責任な人もいる。

確かに、目の前のテストや入試の点を取ることだけに限定すれば、それは1つの有効な方法である。しかし、そんなことを繰り返して出来上がるものは、いびつな形をした無能である。そういう人は「受験勉強なんて役に立たない」などと大人になって声高に叫ぶようになる。

こういうループが一部で出来上がってしまっていることに大きな危機感を抱いている。とくに理系に進学するにも関わらず、体系だった学び方ができていない人は、大学に進学するだけ無駄というものである。まあ、就職予備校的に考えてるのかもしれないけど(お金もったいないなあ)。

勉強のやり方に、正しい方法というのがあるのかどうかは分からないけど、少なくとも自然科学という分野においてはある程度確立されたものがある。それを素人が無視してやって良い結果を得られるわけがない。「入試で合格できる人」を大量に生産する時代はもうとっくの昔に終わっている。

新テストがそうした似非学力を徹底的に否定するものになってくれることを俺は願っている。

なんか、真面目なこと書いてしまったな。うーん。尻がかゆい。

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