うさぎとかめ

公立高校入試1日目が終了した。とくに英語の出題形式が変化して戸惑った人も多いだろう。

試験の形式が変化して慌ててしまう人は多いのだけど、形式というのは必ず変化するものである。でも英語がいきなりドイツ語になったわけではない。もし、そうであれば慌てるのも分かる。けれども、そんな事態が起こったわけではない。英語の試験であることには変わりはなかったわけで、表面的な題材や出題形式が変わっただけである。

にも関わらず難しいと感じる人は、いかに試験だけに特化した勉強をしてきたかということの表れではないかと思う。

大学入試なんかでも同じ現象が起こる。表面的な形式が変化して対応できないという人は思った以上に多い。結局のところ、試験のための勉強ばかりしているせいで、その試験自体が変化すると対応できないという程度の能力しかついていないのだろう。

形式が変わろうとも、絶対に変わらない本質の部分をきちんと理解している人は「あ、なんか変わったなあ」くらいの印象しか持たない。

以前、金沢大学の英語の試験がすべて英語のみの試験に変化したときにも同じようなことがあった。しっかりと英語を勉強していた塾生は「むしろ内容的には簡単になってたけど」と言っていた。でも、ニュースなんかでは「難化」とされていて苦笑した経験がある。結局そんな程度なんだと認識を改めさせらた。

こうした試験ありきの勉強というのは、良い面もあるかもしれないが、結局のところ偏差値や点数、合格・不合格という分かりやすい指標でしか評価がなされない。それによってスポイルされてしまう部分もかなりあるだろう。そして、その部分に実は大切なことが隠れているということもしばしばあるのではないだろうか。

 

高校生に数学を教えるようになって、あまりのひどさに最初の頃は戦慄した。模試の偏差値が70を超えるような生徒であっても、何も理解していないということが頻繁に起こったからだ。問題をやらせればスラスラと解ける。では、と少し目先を変えて同じ内容について聞いてみると「分かりません」と答える。「この問題できたなら分かるんじゃない?」と聞いても「やったことないです」という。こんなことが、頻繁に起こったのである。でも、成績的には優秀なので「数学ができる生徒」として扱われていた。

一方で、数学の点数は良くないけれど、時間をかけてあれこれと自分で試して納得するまでやる生徒がいた。証明なんかもきちんとやって、他の人が10分で終わるような内容を3時間かけて納得するようなタイプの生徒だ。俺から見たら、十分に数学の素養があると感じる生徒である。でも、当然ながら試験では、要領よくやる生徒に負けてしまう。そして「自分は数学が得意じゃないから」というのが口癖になっていた。「そんなことないと思うけど」と言っても聞かない。こうして「数学が苦手」だと思い込んでしまう生徒は、実はかなり多いのではないかと思う。

もちろん要領が良いということも武器の1つだし、試験を試験と割り切ってうまく切り抜けることも重要な能力だと思う。そういう人が賞賛されるのを悪いこととは思わない。ただ、その一方で、後者のような人が切り捨てられてしまうのは非常にもどかしいものがある。とくに理系においては、要領の良さよりも、着実な一歩と継続力、そして本質をつかみとろうという姿勢の方が重要であるように思う。そうした、ある種の才能がシステムの中で殺されてしまうのは、かなり大きな問題だろう。

そういう人を切り捨てることなく、時間をかけてでもじっくり育てる環境があってもいいんじゃないかなと思う。うさぎにも亀にも、それぞれが活躍できる場があっていいと思うんだけどなあ。

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