算数から数学への過程でりんごとみかんは消えてしまう。太郎くんも死に、代わりにA君が現れる。
そして、高校数学になると「\(a+b+c=0\) のとき」のように物でも人でもない記号ばかりが現れる。
さらに大学数学になると、\(\zeta\) やら \(\xi\) なんていう読むのも大変な文字がでてくる。
いつまでも、太郎君と遊んでいる場合ではないという戒めである(嘘)。
つまり、大きな流れでも具体から抽象へと流れていくというわけだ。
高校数学で躓く人には、この抽象化された表現を受け付けないという人が一定数いる。
「意味がわからない」というのである。まあ、当たり前である。
いきなり抽象化されたものを見て、なるほど、そういうことか!となれば勉強する必要はない。
「なんだこりゃ?どういうこっちゃ?」というところからスタートするのである。
そして、具体例を通して意味を理解していく。
だいたい、みんなこういう過程を経ているのではないだろうか。
いわゆる演繹という抽象から具体へという流れである。
ただ、残念なことに、ここで終わってしまう高校生が多い。
ここから、もう一度抽象へ戻るというのが大事ではなかろうかと個人的に思う。
個々の問題を一つ高い視点で抽象化してみれば、共通するものが見えてきたりする。見た目には別物に見えていたものが、同じものとして認識できたりする。
そうして、具体から抽象へという帰納的な思考を身に付けるのが高校数学では大事だと思っている。
しかし、実際には、具体的な問題ばかりを繰り返して、それらを個別のものとして認識している人が多い。
問題集をアホみたいに繰り返していれば、そういう風になっていくのかもしれない・・・
共通することは何だろうか、相違点はなんだろうか、と1つ1つ時間をかけて考えてみればいいのにと思う。
とてももったいない。きちんと演繹と帰納を使い分ければ、そんなにマシンのように問題をやらなくてもいいはずなんだけど。
まあ、でもそういう方法で、試験では点数が取れてしまったりするから仕方ないかなとも思う。
ただ、個人的には、帰納的に考えるという能力を大学に入学するまでに身につけておいて欲しいな〜と思う。
そして、そうした視点を損なわないように指導を心がけている。
何も考えていないように見えるかもしれないが、案外、俺っていろいろと考えているのだよ。ふふふ〜ん。
とりあえず、花粉の猛威に完全にやられているので、今日はここまで。