TOEIC撤退の報道
ご存知の方も多いと思いますが、先日、大学入試関連で以下のような報道がありました。
英語の民間試験の導入や新テストの記述採点などについては、これまでも多くの方が制度の不備を指摘しておられます。
先日の記事でも紹介したように具体的な動きも出てきています。
塾長せっかく夏の予定を立てたのに生徒たちの予定を聞いたらいろいろと変更しないといけなくなり途方に暮れている塾長です。あまりにもタイトなスケジュールにするとクオリティが維持できなくなる(もう若くないのだ!俺よ!)ので、なるべく[…]
こうした流れの中でのTOEICの撤退はその是非は置いておくとして、大きな意味を持つのではないかと思います。
TOEIC撤退の意味すること
この意味ついては以下の記事が端的にまとまっていたので紹介しておきます。
昨日(2019年7月2日)報じられた以下のニュース。タイトルからして地味だが、教育関係者の間には激震が走った。TOEIC…
TOEICとしては大学入試というレベルでの公平性や厳密性を担保できないということであり、文科省による認定が実質スカスカであったことを裏付ける結果となっています。
そして、そういう点について、かなり以前から「まともな」専門家の方々が指摘なさっているわけです。
四技能とは言うけれど
そもそも、四技能がどうこう言っているくせに、具体的にどのように四技能を伸ばしていくのかという点についてはほとんど見えてこないのです。
単に「四技能」というお題目を掲げて、それっぽい試験を実施するというだけのように見えて仕方がありません。
そして、アホな指導者が「早いうちから英検を〜」だの「GTEC対策が〜」だの「TOEIC対策が〜」だのと宣い、挙句「〇〇が点数を取りやすい」なんていう無責任な発言を撒き散らして受験生を混乱させているわけです。そういう指導者には退場してもらいたいというのが私の願いです。
誰とは言いませんが(あ!見えてる笑)、一時期四技能の旗手のように扱われていた人がいますが、その方の書籍についても以下の記事で多くの問題点が指摘されています。
東進ブックスから2018年3月に出版された『英語4技能の勉強法をはじめからていねいに』(安河内哲也責任編集)という書籍が…
結局のところ、この四技能試験については「なんとなく」という感じで改革が行われているようにしか思えません。
入試改革のトホホな実情
と散々ディスってきましたが、私は入試改革自体には反対ではありません。ただ、改革のためにはしっかりとした現状の分析が必要であると考えます。現行のシステムで上手くいっているのであれば、それを改悪する必要はないわけです。
ところが、以下の大臣の発言を見ると、大学入試が現状でどのように実施されているか把握できていないのではないかと思わざるを得ないのです。
日程的に個別記述入試を共通テスト後に実施することが(事実上)難しい大学が多々あるのです。RT @pMCua8rDXnSi5Sr: 別に大学の個別試験で記述力が試されているのに、わざわざ共通テストで記述をさせる必要性を感じないのですがどういった意見をお持ちでしょうか?
— 柴山昌彦 (@shiba_masa) June 29, 2019
現行の入試制度においては、記述式の試験(2次試験)がセンター試験後にほとんどの国立大で実施されています。
「日程的に個別記述入試を共通テスト後に実施することが(事実上)難しい大学が多々ある」とのことですが、具体的にどこの大学のことを言っているのか分かりません。こうなってくると、この方自身がちゃんと大学入試を受けたのかすら怪しい感じがします(まさか忘れたなんてことはないでしょうし)。
結局、現在進められている入試改革が「絵に描いた餅」であるということを、この方自身が証明してしまっているのではないかと思います。
この方の他のTweetとコメント欄も是非ご覧いただければと思います。実質的に改革のトップである人がこの程度の認識なのかと愕然としてしまいます。
制度の改革をするなら責任を
入試改革や教育改革が実施されるのは、別に今回が初めてのことではありません。
近いところでは「ゆとり教育」という改革がありました。結果的には失敗という烙印を押されてしまった形です。
あの時も「ゆとり教育」という言葉だけが先行して、具体的にどのようなシステムで進めるのかが不透明なまま改革に突入してしまい、現場の教員の方々にほぼ丸投げ(あとはお前らでやれ)状態だったように思います。
さらに、その「ゆとり教育」についての具体的な反省も行われないまま、なんとなく終わってしまったわけです。
そして、その割を食うのは制度をデザインした側の人間(誰も責任を取ってないですし誰に責任があるかも不明です)ではなく、その制度の中で教育を受けざるを得なかった世代の人たちです。
改革をするならするで、責任の所在をはっきりさせ具体的なプランを明示することが必要です。そうでなければ、事後の反省もまともにできません。
結局、方向性は違えど、ゆとり教育の時と同じようなことが行われようとしているのではないかと感じています。