試験対策は必要です。でも、それが勉強のすべてではありません。

試験対策には価値がある
定期テストが近づいてくると、普段はなかなか勉強に手がつかない生徒も、さすがに少しずつ動き始めます。
テストの範囲表を広げて、教科書のページを確認し、学校の問題集やプリントを机の上に積み上げて、勉強する態勢を整える生徒も増えます。
普段からそれくらい熱心にやってくれればいいのですが、期限があるからこそ頑張れるというものなのかもしれません。
私自身も、締め切りがなければ、いつまでたっても終わらない仕事がたくさんありますので、あまり偉そうなことは言えません。
そういう意味でも、勉強するきっかけとして試験はよく設計されていると言えます。
「数学を勉強しなさい」とだけ言われても、範囲が広すぎると、何から始めればよいのか分からないという生徒も多いでしょう。
しかし、「今回は2次関数の最大・最小まで」などと範囲が決まれば、やるべきことはかなり限定されます。学校の問題集の何ページから何ページまで、教科書のどこからどこまで、と区切られていれば、とりあえずその範囲をやるか、と勉強を始めることができます。
範囲が限定されることで、勉強に取りかかりやすくなる
目標があまりに遠く、しかも曖昧なままだと、なかなか最初の一歩を踏み出せません。逆に、目の前にある範囲がはっきりしていれば、「まずはこれをやろう」と考えることができます。
そんなわけで、私は試験や試験対策にも一定の価値があると考えています。
塾でも、定期テストが近づけば試験範囲を確認しますし、生徒が苦手にしている問題を見直すこともあります。入試が近づけば、当然、入試問題を意識した演習も行います。
試験対策は必要です。
これは最初にはっきり書いておいた方がよいと思います。
最近は、「テストの点数ばかりを気にするのはよくない」といった話もよく聞きます。私も、このブログでよく主張していることで、それ自体は間違っていません。ただ、点数を気にしすぎないことと、点数をまったく気にしないこととは別の話です。
理解できていなければ、やはりそれは点数に表れますし、ある程度理解できていれば、それも点数に表れるはずです。もちろん、試験ですから、その日の体調や時間配分、問題との相性などに左右されることもあり、点数だけですべてが分かるわけではありません。それでも、試験は、自分がその範囲をどの程度理解できているのかを確認する一つの機会にはなります。
できていると思っていたことが、実際にはできていなかった。反対に、自信がなかったところが、思ったよりできていた。そういうことは、実際に問題を解いてみなければ分かりません。自分では分かったつもりでも、いざ説明しようとすると上手く言葉にできなかったり、少し形を変えられただけで解けなくなったりすることも「あるある」です。
試験は、そうした部分を洗い出す機会なわけで、試験に向けて勉強することにも、試験が終わったあとに復習することにも意味があります。
ここまでは、特に変わった話ではありません。おそらく、多くの先生方や保護者の方も同じように考えていらっしゃることでしょう。
復習が「解き方の再現」になっている
一方で、15年間、多くの生徒を指導してきて、ずっと違和感を覚えてきたことがあるのも事実です。
「試験が終わった途端に勉強をしなくなる」ような生徒は論外として、まじめに復習をしている生徒の中にも、なかなか伸びない人が増えていることです。学生時代の私よりも、はるかに真面目に、時間をかけて取り組んでいる生徒が多いにもかかわらず、数学の学力については低下の一方という状況があるわけです。
テストで間違えた問題を解き直し、同じような問題を練習する
多くの生徒はそういうサイクルで復習に取り組みますし、それ自体はとても良いことです。ただ、その様子を見ていると、ちょっとした違和感があります。
というのも、復習している内容が「その問題の解き方」に寄りすぎているように感じるのです。
テストで間違えた問題を見直すとき、多くの生徒は模範解答を確認し、そこに示された方法を理解しようとします。自分では解けなかった問題なのですから、まずは解答を読み、どのように考えればよかったのかを確認することは大切です。
ただ、そのときに、模範解答に書かれている方法が、その問題を解くための唯一の方法であるかのように受け止め、模範解答をトレースすることが勉強の中心になっているように思えるのです。
模範解答は、あくまでも正しい答えにたどり着くための一つの道筋を示したものです。紙面の都合で途中の考え方が省略されていることもありますし、別の考え方をした方が自然な問題もあります。
そもそも、「模範」と名前がついているからといって、すべての生徒にとって最も分かりやすい方法であるとは限りません。
ところが、模範解答の方法をそのまま覚えようとすると、「なぜこの考え方を使うのか」ということよりも、「この問題ではこのように解く」ということが残ります。同じような問題が出れば、その方法を再現することはできるかもしれません。しかし、「解き方」という手順を覚えただけで、実際には何も理解できていないというケースが増えているのではないでしょうか。
例えば、2次関数の問題で、最初に平方完成して $y=(x-2)^2+1$ という形を求めているのに、$x$ 軸とグラフの共有点を調べるために、わざわざ判別式を計算しているような人を少なからず見かけます。
平方完成した式から、頂点が$(2,\ 1)$にあり、$x$軸と交わらないことはすぐに分かります。ところが、「共有点の個数を調べるときは判別式を使う」という感じで「解き方」を覚えている生徒は、わざわざ判別式を持ち出してしまうのです。
もちろん、判別式を計算しても正しい結論にはたどり着きます。しかし、すでに平方完成された式から答えが見えているのに、さらに計算を重ねる必要はありません。
ここで気になるのは、判別式を使ったこと自体ではなく、平方完成された式を見てその値やグラフを考えるよりも、「共有点の個数なら判別式」という結びつきの方が先に働いていることです。
模範解答にその方法が載っていれば、それがこの問題を解くための正しい道筋であり、最後までその通りに計算しなければならないと思ってしまうわけです。別の見方ですでに答えが分かっているのに、それには気が付かずに面倒なことをやってしまっているのです。
これは、判別式の計算ができないから起こることではなく、むしろ判別式を使う問題をきちんと練習し、その方法を忠実に再現しようとしているからこそ起こります。
復習が模範解答の再現に寄りすぎると、問題を考えることよりも、覚えた解法を最後まで再現することが優先されます。その結果、理解できていれば必要のない計算まで行い、かえって問題を複雑にしてしまうことがある、ということです。
判別式とは何か、グラフとどう対応するのか、方程式とどう結びついているのか、そういうことが正しく理解できていれば面倒な計算をするはずはないのですが、「解き方を再現すること」が目標になってしまうと、その背後にある考え方まで理解しないまま進んでしまう生徒が出てきます。
しかも、そうした生徒は、私が思っていた以上に多いのです。
試験が勉強の目的になっていく
試験範囲が限定されていることと、こうした勉強とは無関係ではないように思います。
試験範囲が2次関数だと分かっていれば、出てくる問題は基本的に2次関数です。最大値や最小値を求める問題であれば平方完成を使う可能性が高いですし、共有点の個数を聞かれれば判別式を使うのだろうと予想できます。
どの単元の問題なのかが最初から分かっているため、出題される問題も、ある程度絞ることができます。これは、試験範囲が限定されていることの利点と、表裏一体の関係にあるのだと思います。
範囲がはっきりしていれば、何を勉強すればよいのかが分かりやすくなります。
一方で、なぜその解法を使うのかを十分に考えなくても、「この問題ではこの解法を使う」と覚えることで、目の前の問題には対応できるようになります。試験時間内に多くの問題を解かなければならないのであれば、じっくり考えるよりも、覚えた「解き方」に当てはめて答えを出す方が効率的です。そうした方法を選ぶ人が出てくるのも、当然といえば当然でしょう。
もちろん、模範解答を見ること自体が悪いわけではありません。問題は、そこに書かれた手順を再現することが、勉強の目的になってしまうことです。
試験範囲が限られている間は、それでもある程度の点数が取れます。しかし、単元が変わるたびに新しい解き方を覚えているだけでは、数学は、決められた手順を問題に当てはめる教科になってしまいます。
試験は、本来、自分がどの程度理解できているのかを確かめるためのものです。ところが、点を取ることが最優先になると、理解することよりも、試験で使う操作を覚えることが勉強の中心になります。
いつの間にか、理解を確かめるための試験が、勉強の目的そのものになってしまう。
私が感じていた違和感の正体は、そこにあるのだと思います。
では、試験対策は、なぜ勉強そのもののように扱われるようになったのでしょうか。
次回は、そのあたりをもう少し考えてみたいと思います。


