SHARE:

なぜ試験対策が勉強そのものになったのか

なぜ試験対策が勉強そのものになったのか

前回は、試験対策には一定の価値がある一方で、それが勉強の中心になりすぎると、「ものごとを理解すること」よりも、「試験で使う解き方を覚えること」が優先されるようになる、という話を書きました。

では、なぜ試験対策が、勉強そのもののように扱われるようになったのでしょうか。

塾長

これだ!という原因があるわけではありません。

学校の指導が悪いとか、塾が点数ばかりを追いかけているとか、生徒が楽をしようとしているとか、そのような単純な話ではないと思います。

いくつかの事情が重なった結果として、試験対策に向いた勉強が選ばれやすくなり、それが次第に普段の勉強へと広がっていったのではないでしょうか。

一人で考える時間が減っている

今の中高生を見ていると、ずいぶん忙しそうだと感じます。

もっとも、宿題や部活動で忙しいのは、今も昔もそれほど変わらない気もします。おそらく、変わったのは、その合間にある時間の中身です。

以前であれば、学校から帰ったあとや移動中、寝る前などに、誰とも話さず、一人で過ごす時間がありました。

もちろん、その時間に熱心に勉強していたわけではありません。ただぼーっとしたり、音楽を聴いたり、ときには答えの出ないことに思いをめぐらせていました。

しかし、そうした何もしていないような時間が、頭の中を整理したり、昼間に分からなかったことをふと思い返したりする余白にもなっていたのではないかと思います。

今は、そうした時間にもスマートフォンが割り込んできます。

メッセージが届き、SNSを開けば知り合いの投稿が流れてきます。動画を見始めれば、次の動画が次々に表示されます。実際に誰かと会っていなくても、いつも誰かの言葉や反応に触れることができます。

これはある意味、とても便利ですし、そうやって人とのつながりに助けられることも多いでしょう。

その一方で、生徒たちを見ていると、以前なら一人でぼんやり過ごしていたような時間まで、さまざまな情報や人とのつながりであふれてしまっているように感じます。

分からない問題について考え続けることも、自分が何を理解できていないのかを振り返ることも、ある程度まとまった一人の時間を必要とします。

しかし、少し考えて分からなければ、なんとなくスマホに手が伸びてしまうこともあります。そうして、SNSなどの別の情報に触れたり、誰かから届いたメッセージに気を取られたりなんていうこともあるかもしれません。

そのような環境の中では、誰ともつながらず、一人で考え続ける時間を持つことが、以前よりはるかに難しくなっているのかもしれません。

すぐに解き方へたどり着ける

一人で考える時間が持ちにくくなったことに加えて、今は、分からない問題の解き方へすぐにたどり着ける環境があります。

分からない問題も、検索すればすぐに解説が見つかります。動画を開けば、答えに至るまでの手順を順番に説明してくれます。

これは、とても便利なことです。

私が高校生だった頃には、教科書や参考書を調べても分からなければ、翌日まで待って先生や友人に質問するしかありませんでした。分からない問題を、分からないまま抱えておかなければならない時間があったわけです。

その間に自力で解けることもあれば、結局分からないまま翌日を迎えることもありました。ただ、少なくとも、自分なりに考える時間はありました。

今は、分からないまま待つ必要がありません。

すぐに解説へたどり着けるからこそ、自分で考えるという時間を無駄と捉え、そういう過程を飛ばしやすくなったように思います。解説を見て、「なるほど、こう解くのか」と納得するだけで終わっているような気がします。

しかし、その納得が、説明の流れを追えただけなのか、自分で正しく理解できたのかは、分けて考えなければなりません。

解説を見た直後には分かったように感じたのに、翌日になると同じような問題が解けないなんていうことがあります。それは、答えまでの道筋を外から与えられたことで、自分で考え、試行錯誤する過程が抜けてしまっているからです。

ネットや動画は、うまく使えば学習を助ける非常に便利な道具です。問題なのは、それらを使うことではなく、解説を確認する前に自分でどこまで考えたのか、見たあとに自分の力で考え直したのかということです。

必要な情報がすぐに手に入る環境に慣れていると、勉強についても、まず短く分かりやすい答えを求めやすくなるのではないでしょうか。

そして、それをただ受け入れて「そういうもの」として流し込むような勉強になっているのではないでしょうか。

分からないことをしばらく抱え、自分なりに試行錯誤するよりも、先に解き方を確認して真似をするほうが早い、そうした勉強が選ばれやすくなっているように思います。

理解よりも進捗の方が確認しやすい

もう一つ大きいのは、理解できているかどうかよりも、問題集をどこまで進めたのか、何問解いたのか、何時間勉強したのかという方が、外から確認しやすいことです。

  • 問題集をどこまで進めたか
  • 宿題は終わらせたか
  • ワークを何周したか

こうした質問であれば、生徒も答えやすいですし、教える側も状況を把握しやすくなります。

塾長

私も、生徒に同じようなことを聞くことがあります。

一方で、「この単元を勉強して、何が分かりましたか」と尋ねると、確認はそれほど簡単ではなくなります。

生徒の説明を聞き、どこまで理解できているのかを確かめる必要があります。

場合によっては、こちらから質問を重ね、その生徒がどこで分からなくなっているのかを探らなければなりません。

当然、これには時間がかかります。

学校でも塾でも、多くの生徒を限られた時間で指導しなければなりません。理解を一人ずつ確かめるよりも、進度や正答数を確認する方が管理しやすいのは確かです。

生徒にとっても、「この問題集を三周しなさい」と言われた方が、何をすればよいのかが明確です。

「きちんと理解しなさい」と言われても、どこまでできれば終わりなのかは分かりにくいものです。それに対して、三周すれば課題は終わります。問題集のページも進みますし、勉強した実感も得られます。

もちろん、繰り返し問題を解くこと自体が悪いわけではありません。同じ内容に何度か触れる中で、最初は分からなかったことが見えてくることもあります。

ただ、周回すること自体が目的になれば、理解できたかどうかとは関係なく、決められた回数を終わらせようとします。

一周目では解答を参考にして進み、二周目では前に見た解法を思い出し、三周目には問題を見ただけで手順が浮かぶようにする、その結果、決まった問題には正解できるようになるでしょう。

しかし、そこで身についているのが、正しく理解して得られたものなのか、単に手際よく解く手順を覚えただけなのかは、慎重に判断しなければなりません。

前回書いたように、模範解答の方法を再現できることと、その問題を理解していることは同じではないからです。

本来の目的は、問題集を終わらせることではありません。その単元で扱う考え方を理解し、必要な場面で自分で使えるようになることだったはずです。

ところが、理解は進捗のように簡単には見えません。そのため、分かりやすく、管理しやすい回数や量が、いつの間にか勉強の目標になっていくのです。

試験対策と普段の勉強の境目がなくなる

一人で考える余白が持ちにくくなること。分からない問題があれば、すぐに解き方を確認できること。そして、理解ではなく、問題数や周回数によって学習の進み具合を確かめること。

それぞれには、それなりの理由があります。

生徒は、学校の課題や試験に対応しながら、絶えず入ってくる情報や人とのつながりの中で勉強しています。学校は決められた内容を進めなければなりませんし、塾も目の前の試験で結果を出すことを求められます。

そのような環境で、まず解き方を知り、目の前の課題を終わらせようとすることは、決して不自然ではありません。

しかし、そうした勉強が試験のたびに繰り返されると、試験直前の一時的な勉強と、普段の勉強との境目がなくなっていきます。

定期テストが終われば、学校の授業は次の単元へ進みます。しばらくすれば、また次の定期テストがやってきます。高校生であれば、その間に模試もあります。

前の単元で理解できていないことが残っていても、ゆっくり戻って考え直す機会を作るのは簡単ではありません。

目の前にある次の試験へ向けて、また新しい範囲を進めることになります。

こうして勉強は、試験ごとに区切られた範囲を、期限までに処理していくものへと変わっていきます。

理解することよりも、決められた範囲を終わらせることが優先され、自分で考えることよりも、すぐに使える解き方を知ることが優先されるようになります。

こうした積み重ねによって、試験対策のために選ばれた方法が、普段の勉強として定着していったのだと思います。

だからこそ、この問題を「生徒の勉強法が悪い」というだけで片づけることはできません。

一人で考える余白が持ちにくいこと、必要な解き方へすぐにたどり着けること、そして理解よりも進捗の方が確認しやすいこと。

こうした事情が重なり、解き方を覚えて再現する勉強が選ばれやすくなっているのです。

では、そのような勉強を続けていると、実際に何が起こるのでしょうか。

次回は、試験対策を中心にした勉強によって、何が失われていくのかを考えてみたいと思います。

この記事が気に入ったら
フォローしよう
最新情報をお届けします
あなたへのおすすめ