だから勉強法がおかしくなった

前回は、一人で考える余白が持ちにくくなったことや、分からない問題の解き方へすぐにたどり着けるようになったことなどが重なり、試験対策に向いた勉強が、いつの間にか普段の勉強として定着していったのではないか、という話を書きました。
では、そうした勉強を続けていると、何が起こるのでしょうか。今回はそのあたりを考えてみたいと思います。
問題集を繰り返すことが悪いとか、分からないときに解説を見るなとか、そういう話ではありません。
どちらも、勉強する上では必要なことです。
ただ、最初に正しい解き方を確認し、その通りにできるようになることばかりを続けていると、勉強の仕方そのものが、少しずつおかしな方向へ向かっていくように思います。
「分からない」まま考えられない
生徒が問題を解いている様子を見ていると、ときどき、問題をほとんど読まないうちに質問されることがあります。
「これは何を使う問題ですか?」
「判別式ですか?」
「Cですか、Pですか?」
どうやら、先に解き方があって、それに沿って問題を解くと思っているようです。
もちろん、数学の問題を解くときには、どの公式や定理を使うのかを考える場面もあります。以前に解いた問題との共通点を探すこともあります。
ただ、問題をよく読んでみる前に、「これは何を使う問題なのか」と聞かれると、少し違和感があります。
いや、それを考えるのが問題なんだけどなあ。
などと思いながら、すぐには答えずに、「とりあえず、もう一度問題を読んで条件を整理してみようか」と返します。
すると、しばらく問題を眺めてはいるのですが、手は動きません。そして、少し時間がたつと、またこちらを見ます。何かを考えているというよりも、私がヒントを出すのを待っているようにも見えます。
おそらく本人としては、どの解き方を使うのかが分からないので、何もできないと思っているのでしょう。
しかし、問題を解くというのは、最初から解法が分かっていて、その手順を間違えずに進めることではありません。
問題文を何度か読んだり、図を描いてみたり、とりあえず式にできるところまで式にしてみたり、そうこうしているうちに、自分の知っている事柄とのつながりが見えてくることがあります。そうして、どういうふうに解くのがいいのかが見えてくるのです。
もちろん、問題によっては何も見えてこないこともあります。
図を描いてみたけれど、かえって分からなくなった。式を作ってみたけれど、計算が複雑になっただけだった。そういうことも、いくらでもあります。
それでも、問題を読み直したり、書いた式を眺めたりしているうちに、「この条件は、ここで使うのか」と気づくことがあります。
問題を解くというのは、本来、そういう少し手間がかかるものだと思います。
ところが、普段から問題と解き方をセットで覚えていると、使う解法が見つからない時間を、何もできていない時間のように感じてしまいます。すぐに式を書けなかったり、計算が始まらなかったりすると、答えに近づいていないように感じるのでしょう。
ただ、こちらから見ると、その時間にも頭ではいろいろ考えているはずなのです。
問題文を読み直しながら、何か使えそうな条件を探しているのかもしれません。前に習ったことを思い出そうとしているのかもしれません。うまく言葉にはできなくても、頭の中ではあれこれ探しているはずです。
これは、問題を解き始めるときだけの話ではありません。
「どこが分からないの」と尋ねたときに、「全部です」と返ってくることも、よくあります。本当に全部が分からないわけではないはずです。
な〜んも分かんねえ!
問題文に書かれている言葉の意味は分かるでしょうし、途中までなら計算できることもあります。
ただ、自分がどこまで分かっていて、どこから分からないのかを考える前に、「分からない」と判断してしまうのです。
教科書を読み直したけれど分からない、途中まで式を書いたけれどその先へ進めない、解説を読んでもなぜその式が出てきたのか分からない、などなど。
勉強をしていれば、そういう状態になることは普通にあります。
むしろ、新しいことを学んでいるのですから、最初から全部分かる方がおかしいでしょう。
それでも、「分からないまま」の状態は、あまり気持ちのよいものではありません。
少し考えて解けなければ、すぐに解説を見たくなります。授業で少し複雑な話をすると、「結局、どうやって解けばいいんですか」などと聞かれることもあります。
気持ちは分かります。時間ばかりが過ぎていくと不安になりますし、自分だけが分かっていないように感じることもあるでしょう。
しかし、学ぶというのは、分からないこととじっくりと向き合うことでもあります。
初めは何が分からないのかさえ分からなかったものが、具体例を考えたり、教科書を読み直したり、誰かに説明してもらったりするうちに、少しずつ形を持ち始めます。
「公式を覚えていなかったわけではなく、問題文の意味を取り違えていた」
「計算ができなかったのではなく、図の見方が分かっていなかった」
そんなふうに、自分がつまずいていた場所が、あとになって見えてくることがあります。そこが見えてくれば、次に同じような場面が出てきたときにも、自分で気づきやすくなります。
反対に、分からないと思った瞬間に解説を見て、その手順だけを覚えてしまうと、自分がなぜ解けなかったのかは分からないままです。
最初から使う解法を教えてしまえば、その問題は早く解けます。
しかし、それでは、次の問題でもまた「何を使う問題ですか」と聞くことになります。
間違えることまで避けるようになった
試験では、正しい答えを出さなければ点数になりません。
計算を間違えれば減点されますし、途中の方針が違っていれば、最後まで答えにはたどり着けません。
ですから、試験対策の中で、間違えないことが重視されるのは当然です。
しかし、その考え方が普段の勉強にまで広がると、自分で考えて間違えるよりも、先に正しい方法を教えてもらう方がよい、ということになります。
- せっかく考えても、間違っていたら時間が無駄になる
- どうせあとで直すのなら、最初から模範解答を見た方が早い
実際、生徒からそのようなことを言われることもあります。
確かに、試験が明日に迫っているのであれば、そうした判断も必要かもしれません。ただ、普段の勉強までそれでよいのかというと、私は疑問です。
数学が得意な人でも、最初から正しい考え方だけが浮かぶわけではありません。見当違いの式を作ることもありますし、計算してみたら、どうにも答えにつながらないこともあります。
そこで初めて、「この方法ではダメなのか」と分かります。
条件を一つ使っていなかったことに気づくかもしれません。式を立てる前の段階で、問題の読み方を間違えていたことに気づくこともあります。自分で間違えたからこそ、どこが違っていたのかが分かるのです。
ところが、最初から模範解答の通りに進めば、そういうことは起こりません。
正しい式を書き、正しい計算をして、きれいな答えまでたどり着くことができます。ノートだけを見ると、何の問題もないように見えます。
ただ、その生徒が自分で問題を解いたときに、どこで間違えそうなのかは分かりません。本人にも分からないでしょう。
間違えていないのではなく、間違えるところまで自分で考えていないからです。
間違い方にも、その人らしさが出ます。
計算でいつも同じ符号を落とす生徒もいますし、図形になると急に見た目だけで判断してしまう生徒もいます。文字が出てくると、とりあえず全部を式に入れようとする人もいます。
そうした癖は、自分で問題を解いて間違えなければ見えてきません。
もちろん、いつまでも同じ間違いを繰り返してよいわけではありません。間違えたあとは、その原因を考え、次に同じことをしないようにする必要があります。
しかし、そのためにも、まずは自分でやってみなければなりません。
自分で考えた結果として間違えるから、自分の癖が見えてきます。勉強の途中の段階でまで間違いを避けてしまえば、その機会もなくなってしまいます。
効率のよい勉強ばかりを探す
前回、理解できたかどうかよりも、問題集を何周したのか、どこまで進めたのかという方が確認しやすい、という話を書きました。
これは、教える側だけの問題ではありません。
生徒の側も、何をすればよいのかがはっきりした勉強法を求めるようになります。
「この問題集は何周すればいいですか」
「一日に何時間やればいいですか」
「この参考書と、あの参考書なら、どちらがいいですか」
もちろん、質問すること自体は悪くありません。教材には向き不向きがありますし、むやみに長時間机に向かえばよいわけでもありません。ただ、ときどき、勉強の中身よりも、効率のよい方法を探すことの方に熱心になっているように感じることがあります。
問題集を三周すれば力がつくだとか、この参考書を使えば成績が上がるだとか、そのような分かりやすい答えを求めているようにも見えます。
勉強法を調べていると、なんとなく勉強した気になります。
私も、新しい文房具や仕事道具を買うと、それだけで少し仕事が進んだような気がするので、気持ちはよく分かります(笑)
しかし、よい問題集を買っても、それだけで数学ができるようになるわけではありません。三周すると決めても、その三周で何を考えたのかが大切です。
一周目に分からなかった問題を、二周目では解答を思い出して解いただけなのか。それとも、前回分からなかった原因を考え直し、自分なりに説明できるようになったのか。
同じ三周でも、中身はまったく違います。
勉強時間についても同じです。
机に二時間向かっていたという事実だけでは、その二時間に何を考えていたのかは分かりません。もちろん、ある程度の時間を使い、ある程度の量をこなさなければ身につかないこともあります。
ただ、時間や回数だけを整えても、肝心の中身が抜けていれば、勉強したという形だけが残ります。
本来は、勉強の中身があって、そのために方法を工夫するはずです。ところが、いつの間にか方法ばかりが先に決まり、その方法をこなすことが勉強になっている。
私が「勉強法がおかしくなった」と感じるのは、そういうところです。
生徒が怠けているという話ではありません。むしろ、まじめに取り組み、言われたことをきちんとこなそうとしている生徒ほど、こうした勉強に入り込んでしまうことがあります。
使う解法を確認し、間違えないように模範解答を参考にして、分からなければ解説を見て、決められた回数だけ問題集を繰り返す。
一つひとつは、それほどおかしなことではありません。ただ、それだけで勉強が進んでしまうと、自分で考える必要がなくなります。
何を勉強するのかも、どの問題を解くのかも、何回繰り返すのかも、すべて外から与えられます。本人は、その指示に従って手を動かせばよい。それで試験の点数が取れることもあります。
しかし、そのような勉強を続けた先に、自分で問題を見つけ、自分で考え、自分で学び続ける姿があるとは、私には思えないのです。
試験対策のために選んだ勉強法が、いつの間にか勉強のすべてになり、その結果、勉強の中から、迷ったり、間違えたり、分からないまま考えたりする時間が抜け落ちてしまった。
それが、ここまで書いてきた違和感の正体なのだと思います。
では、本来の勉強とは、どのようなものなのでしょうか。
何でも一人で考え続ければよいわけではありませんし、解説を見ずに何時間も悩み続ければよいわけでもありません。
次回は、私が考える「本来の勉強」について、もう少し具体的に書いてみたいと思います。






