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本来の勉強とは何か

本来の勉強とは何か

ここまで、試験対策を中心にした勉強について書いてきました。

試験で使う解き方を覚え、間違えないように練習し、問題集を決められた回数だけ繰り返す。そうした勉強には、もちろん意味があります。試験が近づけば、ある程度はそういう勉強も必要です。

ただ、それが勉強のすべてになってしまうと、自分で考える時間が少しずつなくなっていく。

前回は、そんな話を書きました。

では、本来の勉強とは何なのでしょうか。

この問いに、短い言葉で答えるのはなかなか難しいです。

「理解することです」と言ってしまえば簡単ですが、では理解するとは何なのか、という話になります。

「自分で考えることです」と言っても、では何をすれば考えたことになるのかが曖昧です。

私は長く数学を教えてきましたが、この辺りは今でもよく考えます。

ただ、授業をしている中で、「これは大事だな」と思うことはいくつかあります。

その一つが、目の前の内容を、自分の中で一度組み立て直すことです。

理解するとは、どういうことなのか

生徒に説明をしたあと、

とある
生徒

分かりました!

と言われることがあります。

その言葉を聞けば、もちろんこちらも嬉しいわけですが、そのあとにもう少しだけ追加で確認することがあります。

「じゃあ、どうしてここでこの式になるの?」

「この条件がなかったら、どうなる?」

そんなことを聞くと、それまで勢いよくうなずいていた生徒が、急に黙ることがあります。

塾長

本当に分かったと自信をもって言える?

少し意地悪な聞き方ですが、本人が嘘をついているとは思っていません。

説明を聞いた直後は、本当に分かったように感じるものです。

指導者が順序立てて話してくれれば、その流れに沿って「なるほど」と思うこともあるでしょう。また、解答を見れば、それぞれの式が何をしているのかも理解できます。

しかし、そうやって説明を追える状態と、自分が理解できた状態は同じではありません。

私は、理解というのは、その内容を自分の中でもう一度組み立て直せることだと考えています。

たとえば、なぜその式を使うのかを説明できる状態であったり、数字や条件が少し変わっても、同じ考え方が使えるのかどうかを考えられる状態です。あるいは、別の方法で考えたときに、同じ結論にたどり着くことが理解できる状態も含みます。

そこまでいけば、かなり自分のものになっていると言えます。

逆に、問題を見た瞬間に解き方は思い出せても、「なぜそれを使うの?」と聞かれて答えられないのであれば、まだ手順を覚えているだけで理解した状態には到達していない可能性が高いでしょう。

これは、数学に限った話ではありません。

歴史でも、出来事の名前と年号を覚えることと、なぜその出来事が起きたのかを理解することは違います。

英語でも、単語の意味を一対一で覚えることと、その言葉が文章の中でどういう働きをしているのかを分かることは違います。

知識を持っていることは必要ですが、知識がばらばらに置かれているだけでは、使える知識にはなりません。

それぞれがどうつながっているのか、自分の中で関係が見えてきたときに、初めて「分かった」という状態に近づいていくのだと思います。

考えるとは、ただ悩み続けることではない

「自分で考えよう」

これは教育の話でよく使われる言葉です。私自身も使うことがあります。

ただ、この言葉は少し危険性をはらんだものでもあります。

何も分からない状態で、ただ机に向かって長い時間悩んでいても、それでは考えたことにならないからです。

個人的に、考えるというのはもっと手を動かしてやるものだと思います。

たとえば、問題文だけではよく分からなければ、図を描いてみたり、文字が多すぎて関係が見えないなら適当な数字を入れてみたりといった感じです。

規則性の問題であれば、実際に最初のいくつかを書いてみます。場合の数なら、いきなり一般的な式を作ろうとせず、人数が少ない場合を調べてみたりもします。

こうして少し形を変えてみると、最初は見えなかったものが見えてくることがあります。

これは、問題を簡単にして逃げているわけではありません。むしろ、複雑でよく分からないものを、自分が扱えるところまで下ろしているのです。

そこから、「ああ、こういうことが起きているのか」というものを見つけます。

そして、そこで終わらずに、もう一度もとの問題へ戻ります。

具体的な数字を入れたときに成り立ったことが、数字を変えても成り立つのか。
人数を少なくしたときに見つけた規則が、人数が増えても同じなのか。
図で見えたことを、式にするとどうなるのか。

こんなふうにして、具体的なところと抽象的なところを行ったり来たりします。

私は、この往復がかなり大事だと考えています。

数学が苦手な生徒ほど、最初から一般的な式を作ろうとします。

問題に文字が書いてあるから、文字のまま考えなければいけない。答えが一般式なら、最初から一般式を作らなければいけない。

そんなふうに考えてしまっているように思います。

でも、数学をやっている人ほど、分からないときには具体的な場合を試します。

簡単な例を作って、何が起こっているのかを観察し、そこで何かを見つけてから、一般的な話に戻るというわけです。

塾長

難しい問題を、難しいまま考える必要はありません。

私は、この考え方を授業でもかなり大切にしています。

分からないものを、自分が分かる形にまで変えてみる。それも立派に「考える」という行為の一部です。

問題文を読むということ

数学が苦手な生徒には、「問題をよく読みなさい」と言われることが多いと思います。

ただ、「よく」とはどういうことなのかが明確ではないケースが多いのではないでしょうか。

問題文を何回も声に出して読めば解けるというものでもありません。

大切なのは、書かれている内容を自分の中で整理し直すことです。

問題には、求めなければならないものがあります。そして、それとは別に、いくつかの条件が与えられています。

その条件は、そのままの形では使えないこともあります。

たとえば「二つの長さが等しい」と書かれていたら、それを式に表すことができます。

「点が円の上にある」と書かれていれば、その点の座標は円の方程式を満たします。

文章として書かれている条件を、自分が扱いやすい形へ少しずつ変えていくわけです。

私は授業でも、ここにかなり時間をかけることがあります。

いきなり解答を作るのではなく、

「何を求めるのか?」
「今、分かっていることはどこまでか?」
「この文章を数学の言葉に直すとどうなるか?」

そんなことを話しながら、一つずつ確認していきます。

以前は、こういう時間を少し遠回りだと思っていた時期もありました。

先に解法を教えて、問題を何問も解いてもらう方が、授業としてはサクサク進みます。

しかし、長く教えていると、この部分を飛ばした生徒は、ちょっと問題の形が変わるだけで手が止まってしまうことに気づきました。

模範解答の形を覚えていれば、当然その問題は解けるようになります。

しかし、問題文を読み、自分で条件を整理する力がなければ、知らない形の問題には対応できません。

だから私は、問題を読むというのは、単に文章を読む(文字を追う)ことではないと思っています。

何が書いてあるのかを一度噛み砕いて、自分なりに再構築するということです。

その作業ができるようになると、問題の見え方がかなり変わっていきます。

教えてもらうことは、悪いことではない

ここまで書くと、「できるだけ自力で考えた方がよい」と読めるかもしれません。

でも、私は何でも自分一人で考えるべきだとは考えていません。

知らないことは、教えてもらわなければ分かりません。

数学の新しい定義や定理を、何も知らないところから全部自分で発見する必要もありません。

それでは、時間がいくらあっても足りません。

先生に聞けばよいことは聞けばよいですし、解説を見た方がよい場面では見ればよいと思います。

いずれにしても、大事なのはそのあとなのです。

説明を聞いて「分かった」で終わるのではなく、一度自分の頭に戻してみて、もう一度、自分で問題を解いてみます。

さっき先生が使った式を思い出せなければ、なぜその式が必要だったのかを考えます。

途中でまた分からなくなれば、もう一度説明を見ればよいでしょう。

分からなくなって説明に戻り、もう一度自分でやってみる。それも普通の勉強です。

生徒の中には、一回説明を聞いたのに解けないと、「理解したはずなのに」と落ち込む人がいます。

でも、一回聞いただけで全部自分のものになることの方が珍しいです。

人から聞いた説明は、その人の頭の中で整理されたものです。

それを自分が使えるようにするには、自分の中でもう一度整理する必要があります。

そのときに、うまくつながらないところがいろいろと出てきます。

前に習った内容を忘れていたことに気づくかもしれませんし、言葉の意味を曖昧に覚えていたことに気づくこともあるかもしれません。

そういうところを少しずつ埋めていきます。

そして、新しいことを学ぶことで、それまで知っていたことの見え方まで変わることがあります。

「あの定理は、ここにつながっていたのか」と、あとになって気づくこともあります。

以前は別々の知識だと思っていたものが、あるとき急につながる。

そうやって、自分の中にあるものが少しずつ整理されていくのだと思います。

分からなくなったところから、勉強が始まる

授業をしていると、生徒の手が途中で止まってしまっていることがあります。

以前の私であれば、早めにヒントを出していたような状況です。授業の時間は限られていますし、予定の分量を進める必要もあります。

何より、生徒が困っているのを見ると、こちらもつい何かヒントを出してあげたくなります。

当然こちらは答えを知っていますし、目の前の生徒がどこでつまずいているのかも、だいたい見当がつきます。

ほんの一言ヒントを出せば先へ進めると分かっていると、なかなか黙って待つのは難しいものです。

しかし、その一言で、生徒が自分で気づくはずだったものまで奪ってしまうことがあります。

そういうことを何度か経験して、今では待つことの重要性を考えるようになりました。

もちろん、ただ放っておくわけではありません。

その生徒が問題のどこを見ているのか、何を書いているのかを見ながら、少し様子を見ます。

すると、間違った式を書いたり、それを消したり、また問題文に戻ったりするわけです。

側から見ると何も進んでいないように見えることもあります。それでも、しばらくすると、

「ここまでは分かるけど、この先が分からない」などと聞いてくれることがあります。

その言葉を聞くと嬉しくなります!

塾長

そこまで分かれば、かなり進んでいる証拠です。

単に「分からない」ではなく、自分が分からなくなった場所を見つけられているからです。

何が分からないのかが分かれば、質問もできますし、教科書のどこを見るべきかも分かります。

先生も、必要なところだけ説明できるというものです。

当然ですが、待ったからといっていつも自力で解けるわけではありません。

最終的に、こちらから説明することだってあり得ます。

それでも、「ここまでは分かる」「ここから先が分からない」というところまで自分でたどり着いてから説明を聞くのと、最初から解き方を教えてもらうのとでは、ずいぶん大きな差が生じます。

前者では、自分の中に引っかかっている場所があるため、説明を聞いたときにも、「ああ、ここがこんなふうにつながるのか」と受け取ることができます。

後者の場合は、まだ何も考えていないところへ解き方だけを与えてしまうことになり、説明はきれいに流れていっても、自分が何につまずいていたのかは分からないままになってしまいます。

前回の記事でも書いたように、「分からない」という状態は嫌なものです。ただ、本当の勉強は、そこから始まることが多いように思います。

分からないものに出会ったら、一度立ち止まり、自分のわかる範囲で考えてみる。

そうするうちに、自分がどこで分からなくなったのかが少しずつ見えてきます。

そこまで来たら、教科書を調べてもよいし、誰かに聞いてもよいでしょう。

そして、分かったことをもう一度自分で確かめればOKです。

そういう時間をできるだけ授業の中に残したい、というのが私の考えです。

勉強は、知識を受け取るだけのものではない

試験対策では、どうしても「できるようになったかどうか」が重視されます。

問題が解けるようになった、点数が上がった、といったことが気になるのも当然ですし、どれも大切なことです。

でも、勉強の価値は、それだけでは測れません。

勉強によって、ものの見方がそのものが変わるということが起こります。

以前は何となく見ていたものに、理由が見えてくることがあります。別々のことがつながって見えたり、初見の問題でも「とりあえずここまでは分かる」と思えたりする、そうした変化の方が、長い目で見ればずっと大きいように感じます。

数学の授業でも、ある単元を勉強したことで、その単元の問題が解けるようになるだけではなく、考え方そのものが変わることがあります。

具体的な場合を試すようになったり、条件を一つずつ整理するようになったり、答えが合わなかったときに自分の考えを振り返るようになったりします。

そういうものは、定期テストの点数にはすぐに結びつきにくいものです。しかし、その後の勉強に大きく影響していくものです。

そして、そうした「考え方やものの見方の変化」は学校を卒業したあとにも残っていきます。

大学へ進学したり、社会に出たりすれば、問題集のように「この定理・公式を使って解く問題ですよ〜」と丁寧に書かれた問題ばかりが出てくるわけではありません。

場合によっては何が問題なのかさえ、最初は分からないことがあります。

知らないことに出会い、自分で調べ、誰かに聞き、考えながら少しずつ分かるようにしていく。そういう場面は、大人になってからもいくらでもあります。

だから私は、試験のためだけではなく、その先にも残る勉強をしてほしいと常々思っています。

解き方を覚えることも、問題を繰り返すことも必要ですし、誰かに教えてもらうことも欠かせません。

ただ、それらを自分の中でどうつなげるのか、そこに、勉強の本当の意味があるのではないでしょうか。

試験が終われば忘れてしまう「解き方」だけではなく、分からないことに出会ったときに、自分なりに考える具体的な方法を見つけることを、勉強を通してやってほしいわけです。

私は、そういうものを残すために授業をしているのだと思います。

というわけで、次回は、このシリーズの最後として、学校を卒業したあとにも続いていく「学ぶ」ということについて考えてみたいと思います。

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